私がアメリカの外資系製薬会社で、臨床開発の統括部長という立場にいた頃の話です。米国本社が開発を進めていた、細胞治療のプロジェクトに関わっていました。それはまだ開発の初期段階ではありましたが、通常廃棄されている胎盤由来の間葉系細胞を、先天性疾患を持つ小児患者さんの治療に活用する、というプロジェクトでした。当時、その対象となった11歳の少年は先天性の遺伝子疾患だったのですが、体力がかなり落ちていて、強力な化学療法に耐えられず、唯一の治療法であるとされていた骨髄移植を行うことができない状況でした。
ところが、胎盤由来の間葉系細胞で治療したところ、骨髄移植ができるまでに体力を回復することができたのです。その後、完全寛解した少年を目の当たりにして「捨てるはずの胎盤を利用した細胞が、新たな治療につながる。これは、大きな将来性がある」と感じ、残りの職業人生の全てをかけてでも、この細胞治療を普及させたいという強い衝動にかられました。
アメリカから帰国後、細胞治療を普及させたいという思いは日に日に強くなり、起業することを決意。当時、自分に足りていなかったファイナンスやアカウンティングといった管理系の素養を身につける必要があると感じ、会社を辞めニューヨークへ渡ります。そこでMBAコースに入り、ビジネスを学ぶと共に事業計画を練りました。
その後、1年でMBAを取得し、同時に事業計画も見えてきたところで、日本へと戻ってきます。帰国後は、バイオベンチャー企業で執行役員・営業・マーケティング本部長に就任し、グローバルでの業務経験に加え、バイオテックに必要な3要素である研究開発・マーケティング・経営を全て経験することができました。
細胞治療との出会いは胎盤由来ではありましたが、私の第二の母校ともいえる東京大学医科学研究所で20年前から臍帯血由来造血幹細胞を題材にした研究に携わっていたこともあり、また、偶然にもこの研究の共同研究者であった東京大学医科学研究所の長村登紀子先生が、臍帯由来間葉系細胞の臨床入り一歩手前まで来ていたため、臍帯(へその緒)の持つポテンシャルの高さはよくわかっていました。
東京大学医科学研究所とのコラボレーションにより、製造に関する技術的ノウハウ、人的資産を継承したいという思いと、ニューヨークで練り上げた間葉系細胞の安定供給に向けたインフラ構築の構想と導入可能なタイミングが双方に合ったことから、2017年4月、ヒューマンライフコード株式会社を設立しました。
創業して2年の間は、大きな壁がありました。日本では、お産の時に出る臍帯(へその緒)の廃棄は自治体ごとに制定された胞衣(えな)条例に従う必要があり、臍帯(へその緒)は自治体が指定する専門業者へ委託し、廃棄しなければなりません。研究目的を除いては使うことができず、製品にして販売することはできないのです。これが、私たちにとっての最大の壁でした。
それでも「臍帯(へその緒)はこれからの細胞医療に必要不可欠であり、必ず私たちがゲームチェンジャーとなる!」との信念のもと、条例緩和に向けて働き続けた末、創業から2年後の2019年、東京都福祉保健局から全国に先駆けてこの条例の緩和が発令され、臍帯(へその緒)が細胞製品の原料として利用できるようになったのです。
これが、臍帯由来間葉系細胞の製品化を目指す私たちにとって、一つの大きな風穴があいた瞬間でした。廃棄されるものを利用するのでドナーさんには侵襲を与えないことや、国産の原料になるために安定供給できる、という意味でも大きなメリットとなりました。
大きな転機となったのは、2019年のことです。条例が緩和され、サプライチェーンの座組も確立されつつあったこの頃、東京からユニコーン企業を輩出することをコンセプトにした「東京ベンチャー企業選手権2019」に出場しました。そこで、ありがたいことに最優秀賞(東京都知事賞)を受賞します。
これにより、知名度と信頼を得ることができ、事業を展開していく上での大きな弾みとなりました。
私たちのミッションは、一日でも早く臍帯由来の間葉系細胞を実用化することです。日本で生まれた製造や品質管理のノウハウが世界標準となり、捨てられていたへその緒が世界中で有効活用される世界の実現は、決して夢の話ではありません。世界初となる臍帯由来間葉系細胞の製品化と、備蓄可能な臍帯(へその緒)を利活用できる社会への変革に向け、確かなエビデンスを着実に構築していきます。
へその緒の細胞で「誰もが、歳を重ねるごとに楽しみになる世界」を実現するため、私たちの挑戦は続きます。